求められる英語教育の改革
実際、中国瀋陽に起こった亡命者連行事件において、副領事が亡命者から渡された英語の手紙が理解できず、そのままつき返したというエピソードのように、外交の現場においても、英語教育に失敗したツケが回ってきたのである。その上、情報技術革命、グローバリズムという波に乗るために、国民の英語力の向上が必要であると広く認識されている。英語の準公用語化をはじめ、多くの提案がなされているが、成果を挙げるためには、英語教育の改革が欠かせない。
こうした期待に応えて、文部省は
しかし、この程度の「志」で、日本人の英語の水準が「使えるレベル」まで高まるだろうか。そもそも、教員に求められる英検準
有効な処方箋を書くためには、まず正しい診断書が必要である。なぜ日本人は英語が苦手なのかという設問に対して、その答えは「上手くなるインセンティブがない」という需要要因と、「英語の先生の質に問題がある」という供給要因にあると私は考えている。
われわれはなぜ英語を勉強するのか、その目的は大きく分けて次の二通りある。英語の勉強を楽しむ人にとっては消費である一方、仕事や、教養、趣味などの道具として身に付けたい人にとっては投資である。残念ながら大半の日本人にとって、どちらも当てはまらない。単に大学に入るために、英語が必修科目になっているだけだからである。個人にとって投資であるといえないこともないが、大学入試での英語の成績と実際に英語を使いこなす能力の間には相関関係が低いことを考えれば、社会全体にとって資源の浪費に過ぎない。
一方、外国人にはなかなか理解できないが、日本の英語教師のほとんどが、まともに英語を話せない。問題はむしろ、この状況が昔から分かり切っているのに、なぜ改善されていないのかにある。この答えは、やはり英語の先生たちが、自分の既得権益を守るために、制度改革に反対しているからである。
国民の英語力を向上させるために、学習期間を伸ばして小学校から英語教育を始めるべきだという議論が盛んである。しかし、私はすでに平均的日本人が8年間も英語の勉強に時間を費やしているのに、それ以上時間を無駄にすることには反対である。英語を勉強する時間を増やせば、他の科目に割り当てられる時間を削除しなければならず、その機会費用があまりにも大きいからである。競争相手であるアメリカは外国語の勉強の時間を節約して数学やコンピュータなどの勉強に割り当てることができる。
学習期間を伸ばすよりも、教員の質の向上が先決である。
質のよい英語教師が国内では確保できないのであれば、海外から来てもらえばよい。確かに今でも一部の学校ではネイティブの英語の先生を採用しはじめているが、学生の人数に比して明らかに不十分である。英語が必修科目のままでは膨大な人数が必要になるが、少数精鋭制に変われば、現在よりそれほど増えなくても済むであろう。
平均的日本人は、英語を勉強する時間を除けば、一生のうち本当に英語を使わなければならない機会がほとんどない。このことを考え、英語を必修科目にするのではなく、選択科目にしたらどうかと提案したい。全廃まで行かなくても、コンピュータの操作に必要なアルファベットなどだけを覚えれば十分である。それならば、一年勉強すれば充分に間に合うであろう。その代わりに、本気で英語力を身につけたい人には、それを可能にする質のいい英語教育を提供すればよい。
RIETI上席研究員TOEFLの平均点の国際比較を引用するまでもなく、日本人の英語が下手なことは自他ともに認めるところだ。テレビでも日本人の英語の下手さ加減をネタにするバラエティ番組が多くあるほどである。しかし、中学校から高校まで6年間、大学の教養課程を含むと、成人した日本人は大体6年間から8年間の英語を勉強したことになっているはずなのに、その大半は英語で道案内さえできないことを考えれば、決して笑って済まされることではない。
それでも、現職の英語教師の反対が予想されるであろう。改革を円滑に行うために、既得権益を尊重しなければならない。英語教師全員に対して能力を検定した上、一定のレベル(たとえば、英検準1級)に達していると認められる場合、従来通りに仕事を続けるが、落第組は現在の給与水準を保障することを前提に、再訓練させた上、転職させるべきである。一部定年に近い人には退職金の上乗せなどの優遇策を含む早期退職制を導入すべきである。既得権益の尊重と効率の改善の両立を目指したこのような英語教育改革が成功すれば、他の分野における改革に対して、1つのモデルを提供することができよう。私の処方箋-必修科目から選択制へ
私の診断書
1級はともかく、生徒に求められる準2級のレベルに達しても、英語が話せるとは思わない。残念ながら、「構想」は無駄な努力で終わってしまう可能性が非常に高いといわざるを得ない。
7月12日に、「英語が使える日本人の育成のための戦略構想」を発表し、英語教員は英検準1級、生徒には高校卒業時点では英検準2級以上を取得、通常の会話ができるようにすることを目標としている。それに向けて、来年から5年間で現職教員6万人に研修を課し、また、2006年度の大学入試センター試験からリスニングテストを導入することを提案している。
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2006年12月30日09時19分 / 提供:PJ
中央教育審議会がまとめた、小5から英語を必修にすべきという報告書について、ニュースキャスターの木村太郎氏は英語教育は5年生からでは遅すぎると「TOKYOHEADLINE」4月3日号の「ニュースの真髄」に書いていた。内容を要約すると、米国から帰国した知人の兄弟の英語力に微妙な差が出たそうで、小学5年と3年の兄弟がアメリカの現地校に入ったところ、帰国時には2人とも英語が「母国語並み」になったが、それでも兄はどこか日本的、それに反して弟はネイティブ同様のレベルだったという。専門家によると、ある年齢を過ぎると母国語を介して外国語を理解するので母国語の影響が残るのだという。
5年生の兄がそれで、日本語の影響が英語に反映されたと考えられる。よって木村氏は5年生からでは遅いと提言しているのだ。また、報告書には英語の授業は週1回程度が適当とされているそうで、ペラペラのレベルを目指している訳ではない。それも中途半端な話で、インターネット利用が不可欠なこれからの時代にはもっとしっかりした英語教育を目指すべきではないか、と彼は主張している。カリフォルニア生まれの国際派キャスターの考えに全く同感である。
小、中、高、大学生、社会人に長く英会話といわゆる受験英語(この2つが異なるところが問題)を教えていた経験から言うと、小学校5年生では既に発音器官が日本語向けに訓練されていて、英語の発音がそろそろ難しくなっている。これが小学校2年生だとネイティブに近い米語発音が容易である。
わたしは中学1年から文法中心の英語教育を受けた。大学も英文科である。それでアメリカに行ってどうだったか?随分奇妙で硬い英語だと笑われたり通じなかったりした。道を聞いてもアメリカ人の返答が聞き取れず、何度も「エクスキューズ・ミー?」と聞き返し、遂には理解するのを諦めた経験がある。10年も日本で英語教育を受けた結果がこれで、悔しくて情けなくて涙まで出た。
"I'm looking for a job.(アイム・ルッキング・フォー・ア・ジョッブ)"すら通じなかったのだ。米語の発音ではジョッブではなくジャーッブである。コーヒー、バニラアイス、チキン、ビールといった簡単な言葉が通じないとはよく聞く話だ。笑い話ではない。
最近ではALTというネイティブ・スピーカーの講師もいて、日本の英語の授業も少しはましになっているのかもしれないが、英会話学校に来る生徒を見る限り、その会話能力の低さにはがく然とした。
口語表現も教えず、3択、適所補充、長文問題などで点数を付ける受験英語重視の英語教育を続けていてはいつまで経っても実践で役に立つ英語はおぼつかない。いつから教えるかが一番の問題点ではない。また、5年生に週に1回ぽっきりの英語の授業をして日本語が変になる事などあり得ない。
それより何より、どう教えるかが一番問題なのだと、いい加減文部科学省も気づいたらどうだろうか。【了】
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